日田県一揆
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日田県一揆(ひたけんいっき)は、1869年(明治2年)の全国的な農作物の不作、それに伴う税制改革が直接の一揆の動機である。1871年(明治4年)11月17日に、巡回中の日田県の警備兵と五馬村の農民の暴力衝突によって全県域を巻き込む打ちこわしへと発展した。 参加した農民一揆勢は6千人から1万人ともいわれ、日田玖珠地域で300ほどの庄屋、日田県の施設、県兵の宿舎を襲撃し、焼き討ちを行った。県庁の役人は英彦山に一時避難していたため死傷者はいなかったが、鎮圧のため兵を送った森藩と日田県官に犠牲者が出た。日田での一揆は、最初の暴動から4日後の11月21日にほぼ鎮圧されたが、豊後・豊前の各地に広まった。政府は騒動の後、大楽と通じていた豊後、豊前、筑前、筑後の藩士の動きを警戒して四条隆謌を日田へ派遣し、質疑で呼び出された諸藩の関係者で豆田町は混乱したという。日田県での一揆関係者には、1872年(明治5年)2月27日に処刑が執行された。
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