日本放送映画時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:45 UTC 版)
「国映」も参照 1965年(昭和40年)ピンク映画や教育映画を製作していた矢元照雄の国映が出資し、日本テレビの番組を専門に手がけるスタジオとして設立した日本放送映画に岡本光輝が移籍した際、新倉も同行。同年には日本放送映画内に日本テレビ専属のアニメ制作部門が発足。1966年には有限会社日放映動画スタジオとして独立する。主要メンバーは旧虫プロダクションや東映動画の元スタッフで、新倉は日放映動画スタジオで代表取締役となり、日放映が手がけた『戦え!オスパー』では、岡本とともに「演出・ディレクター」を務めたとされている。 しかし、新倉が監修したアニメ『とびだせ!バッチリ』(原作・岡本光輝/製作・矢元照雄)で依頼されたフィルム数が納入されないトラブルがあり、その後も帯番組を手がけたが『冒険少年シャダー』制作後、日本放送映画は解散した。
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