日下部氏・朝倉氏との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 21:36 UTC 版)
「有間皇子」の記事における「日下部氏・朝倉氏との関係」の解説
日下部氏の祖である日下部表米(表米親王)は『続群書類従』所収の系図等一般に流布されている系図では、有間皇子の子または弟とされているが、これは信頼できないとされる。この日下部氏の流れを汲むのが、朝倉孝景、朝倉義景を輩出した朝倉氏である。 日下部氏の表米親王後裔説によれば、孝徳天皇には3人の男子があり、長男の有馬皇子は謀反の罪を着せられて刑死、弟は出家して入唐、末弟表米は幼かったため但馬国に流されたという。成長してのち、百済に出兵して戦功があった。そのとき、乗船に穴があきついに沈没かと思われたとき、粟賀明神、養父明神などに必死で祈ったところ、天空より竜に乗った神々があらわれ、船の穴には大鮑が咬み付いて穴を塞いだ。この奇瑞に力をえた表米勢は敵を撃退、無事、但馬に凱旋することができた。表米親王は船を救ってくれた鮑を持ち帰り粟鹿大明神に奉納、親王の子孫は鮑を食することはなかったという。
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