披露山庭園住宅とは? わかりやすく解説

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披露山庭園住宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/09 06:41 UTC 版)

披露山庭園住宅(ひろやまていえんじゅうたく)は、神奈川県逗子市風致地区に昭和40年代に造成された新興住宅地。県南東部、三浦半島相模湾側の逗子市に位置し、標高が約80mほどの小高い小坪山(披露山)を造成した小坪地域にある。県内屈指の高級住宅地で、かつては「逗子披露山庭園邸宅地」と呼ばれていた[1]

概要

披露山庭園住宅(手前)と相模湾の眺望

1968年(昭和43年)に住友建設(現・三井住友建設)がTBS不動産の企画開発の下に造成を担った総面積22ha、215区画の住宅団地で[2]、71年にTBS興発(現・三井不動産)によって分譲が開始された[3][2]バブル期には日本のビバリーヒルズと一部メディアで評された地域であるが、侵入者を物理的に排除する塀が存在しない点で数ある国内の高級住宅地の中でも一線を画する宅地計画がなされている。

第1期分譲地である南側は、1区画1,000平米、建ぺい率20%、高さ8mの建築協定付きで販売され、地区内は共同アンテナ電線類地中化、共同浄化槽を持ち、造成地の表面は芝生で覆われ、一部道路には植栽帯があり、さらに日本庭園も整備された[4]。当初は入居者が少なかったため、一部地区の区画割りが500平米に緩和され、当初予定より分譲戸数が増やされた[2]。管理運営は1978年(昭和53年)に自治会による自主管理へ移行し、85年からは建物所有者を組合員とする披露山庭園住宅団地管理組合法人により運営されている[3]

家屋の建築および改築には、建築協定により、事前に環境コンサルタントに相談し、立体模型を作ったうえで近隣住民に説明、合意を得る環境コンサルタント制度を導入することで、住景観と資産価値を守っている。また、商用撮影地などとして使われる場合、管理組合法人に映像撮影1本70万円、スチール写真1件20万円などの収入を得る仕組みがあり、その収入によって防犯パトロールの実施、共有地の除草、景観保全の管理を維持・運営している[5]

開発当初、一戸当たりの敷地規模を約300坪で設定して区画割りされた住宅街の構内道路は電線・電話線等のインフラストラクチャーの多くが開発当初から地中に埋設され、直線を排した曲線の多い構内道路で構成されている。その後、バブル期とバブル崩壊を経て、約300坪の敷地は小区画に分割されて売買された。その為、古くからの居住者と新興購入者は容易に識別できる。

各宅地の境界線は人工物による塀を建てる事が建築協定によって制限されており、不連続な生垣低木によって、ようやく境界が判別できる程度の設えとなっている。この結果、道行く人々からは隣地との境界が明確に見えない。敷地面積から建物の水平投影面積を除した建蔽率の値は20%であり、団地名の庭園住宅そのままに庭園の中に住宅が点在しているような景観を維持している。周囲には不特定多数向けの商業施設はないが、本社としている企業などはある。大半の世帯が警備会社と契約しており、部外者は入口の管理組合の許可無く街区内に入れない事もあり、閑静な住環境が維持されている。

住宅地からは小坪山の麓にある小坪マリーナと逗子マリーナが見下ろせ、緩やかな曲線を描く湘南海岸逗子湾と相模湾を経た富士山等の眺望も良い為、県内においてはステータスシンボルとして位置付けられ、芸能人などの一部が住む事でも知られている。

披露山

古墳時代末期ごろからは古東海道が通り、古くから交通の要衝で、鎌倉時代には有力御家人が別邸を構えた。

「披露山」の由来は、源頼朝がこの山で御家人たちを集めて、手柄者や、全国から献上された貢ぎ物を披露したことからこの山の名がついたとの説がある[4]

脚注

  1. ^ 写真で見る披露山披露山庭園住宅団地管理組合法人
  2. ^ a b c 建築協定運用規定披露山庭園住宅団地管理組合法人
  3. ^ a b 沿革披露山庭園住宅団地管理組合法人
  4. ^ a b はじめに披露山庭園住宅団地管理組合法人
  5. ^ 石川県内灘海岸における学習する機会を基盤とした協働型沿岸域管理の試み金岡奈穂子・敷田麻実・南陽介.日本沿岸域学会研究討論会2006講演概要集、2006年

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千葉県市川市の国府台、菅野、真間、市川、本八幡一帯は、大正時代に「東の鎌倉」と称し別荘地として分譲され、将校たちが邸宅を構えた。船橋市の海神台や花輪台は、昭和初期に京成電鉄や京急によって高級住宅地として分譲され、市内では「東の海神、西の花輪台」と称された。千葉市緑区には、バブル期に1戸あたり数億円から数十億円で販売されたゲーテッドコミュニティ形式を採用した住宅街「ワンハンドレッドヒルズ」が存在するが、バブル崩壊や高齢化の影響で地価が低下している。浦安市の一部地域は、戦後の埋め立て整備により高級住宅街として知られるようになっている。東京都明治時代以降、江戸市街のうち武家屋敷などが建ち並んでいた山の手を中心とするエリアに富裕層が居を構えるようになり、初期の高級住宅街が形成された。芝、四谷、牛込、番町、麹町、紀尾井町、赤坂、麻布、小石川、本郷といったエリアが該当する。しかし、1923年に東京中心部を襲った関東大震災はこの流れを大きく変える事となり、震災を契機として武家屋敷跡をルーツにしない高級住宅街が多く誕生する。渋谷や世田谷区の桜新町、深沢、岡本、上北沢などがそれに該当する。大正期には、さらに鉄道会社が東京の郊外に電車を走らせその沿線に高級住宅街を開発していく。その代表例として知られているのが大田区の田園調布である。渋沢栄一などを中心として1918年に設立された田園都市株式会社が、当時交通が不便だったエリアに鉄道を敷設し住宅地としての開発を進めるという、阪急の手法を東京で最初に用いた事例である。1922年洗足地区、翌年多摩川台地区が分譲され、1980年には星セント・ルイスのギャグ「田園調布に家が建つ」の流行を経て、現在は全国に知られる高級住宅地として認知されている。同様に東急線の自由が丘、奥沢、久が原、等々力、小田急線の成城、経堂、赤堤などが高級住宅街として開発され、現在でも知られている。昭和期には、品川区の城南五山や渋谷区の徳川山が新興の高級住宅街として開発された。神奈川県
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