成帝の皇太子をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 18:29 UTC 版)
竟寧元年(前33年)に元帝が崩御し、成帝が即位すると、傅昭儀は劉康とともに封国の山陽国に就き、王太后となった。劉康は建昭5年(前34年)に山陽王、河平4年(前25年)4月に定陶王に移されている。陽朔3年(前22年)に劉康は薨じ、恭王と諡された。定陶王は劉康と丁姫(中国語版)の子である劉欣(哀帝)が継いだ。傅太后はみずから劉欣を養育した。 劉欣が成長したのち、成帝に子がいなかったため、劉欣と劉興が皇太子の候補となった。元延4年(前9年)に劉欣と劉興が入朝した際、傅太后は趙皇后・趙昭儀姉妹と大司馬王根に賄賂を贈り、劉欣を皇太子に推薦するよう求めた。趙姉妹と王根が劉欣を称賛し、成帝も劉欣の能力を買ったため、綏和元年(前8年)に劉欣が皇太子に立てられた。成帝は傅太后の従弟の傅喜を太子庶子とした。傅太后と丁姫は詔で長安の定陶国邸に居るよう命じられた。有司は皇太子を傅太后・丁姫と面会させてよいかどうか議論し、させるべきでないという結論に達した。王太后は10日に1度、傅太后と丁姫を皇太子の家に行かせようとし、成帝の反対を押し切り、傅太后のみ皇太子の家に行くことができるようになった。
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