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徐蘇中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 09:02 UTC 版)

徐蘇中
プロフィール
出生: 1886年(光緒12年)7月[1][2]
死去: 不詳(1945年時点で存命)
出身地: 江西省臨江府 [2]
職業: 官僚・ジャーナリスト・教育者
各種表記
繁体字 徐蘇中
簡体字 徐苏中
拼音 Xú Sūzhōng
ラテン字 Hsü Su-chung
和名表記: じょ そちゅう
発音転記: シュー・スーチョン(シュー・スージョン)
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徐 蘇中(じょ そちゅう、1886年〈光緒12年〉7月 – 没年不明)は、中華民国の官僚・ジャーナリスト・教育者。別号は薬群[1]。南京国民政府(汪兆銘政権)では国民政府文官長などの要職をつとめた。

事績

清末に両江優級師範を卒業してから日本へ留学し、法政大学を卒業したとされる[1]

1916年(民国5年)1月15日、中華革命党江西省支部長となる[2]。同年、『晨鐘報』(8月15日創刊)で記者となった[1]1923年(民国12年)10月10日、中国国民党党務討論会委員となり、翌月には同党中央執行委員臨時候補に選任されている。1925年(民国14年)6月29日、広東省電話総局局長に任命された[2]蔣介石国民政府では総統府秘書、大本営宣伝委員、粤漢鉄路局長、江西捐税監察委員等を歴任した後に下野し、江西高級職業学校校長となった[1]

1940年(民国29年)3月30日、徐蘇中は南京国民政府(汪兆銘政権)に参加し、国民政府文官長に特任された[3]。同年12月16日、中国国民党党務委員会主任委員に選任され[2]、翌1941年(民国30年)2月には東亜聯盟中国総会常務監事も兼任している[4]。1943年3月29日、一級同光勲章を授与された[5]1944年(民国33年)11月18日、監察院副院長に任命され、汪兆銘政権崩壊までつとめたと見られる[2][6]

汪兆銘政権崩壊後における徐蘇中の動向は不詳である。ただし、徐が漢奸として摘発されたとの情報は無い。

出典

  1. ^ a b c d e 外務省東亜局(1940)、22-23頁。
  2. ^ a b c d e f 劉国銘主編(2005)、1967頁。
  3. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『国民政府公報』(南京)、民国29年4月1日、国民政府文官処印刷局、11頁)。
  4. ^ 汪著, 東亜聯盟中国総会編(1941)、177頁。
  5. ^ 『日文国民政府彙報』第172号、民国32年4月20日、中国和文出版社、1頁。
  6. ^ 劉ほか編(1995)、1054頁。

参考文献

  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書 下巻』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 『新国民政府人名鑑』外務省東亜局、1940年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1 
  • 汪兆銘著, 東亜聯盟中国総会編『全面和平への路』改造社、1941年。 



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