彦左衛門外記
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『彦左衛門外記』(ひこざえもんがいき)は、山本周五郎の長編時代小説。1959年(昭和34年)6月から翌年8月まで雑誌『労働文化』に『御意見番に候』という題で連載され、同年10月に講談社で改題し刊行された[1]。 現在は新潮文庫版が出版されているほか、全集でも読むことができる。
- ^ 史実では、彦左衛門が沼津の領主だったことはない。次兄の忠佐が領主であり、無嗣断絶を避けるため彦左衛門を養子に立てて後継ぎとする話はあったものの、本人が固辞したため沼津藩大久保家はそのまま改易となっている。詳しくは「大久保氏」を参照。
- ^ 史実の水野十郎左衛門成之はこの当時まだ幼児であり、やはり旗本奴であった父親・水野成貞のプロフィールも重ねられている。詳しくは「水野成之」を参照。
- ^ これらの描写すべてに当てはまる人物は実在しない。徳川秀忠が没した寛永9年の時点での奥平家の当主は「信昌」の孫の「忠昌」であり、「信昌」及びその嫡子(つまり忠昌の父)「家昌」は没後十数年が経過している。また、「美作守信昌」は野州では3万石しか拝領しておらず、「大膳太夫」と称したという記録もない。「家昌」は宇都宮で10万石を領し大膳太夫となったが、美作守ではない。「忠昌」は宇都宮藩11万石の領主かつ美作守であったが、大膳太夫ではない。さらに、寛永9年当時20代半ばであり成人した娘のいるような年齢ではない。また、ちづか姫の「わたくしの祖父の妹が、大久保家の新十郎という方に輿入れをした」という発言が大久保忠隣の子・忠常と結婚した「信昌の娘」を指しているとするならば、ちづか姫の祖父は家昌、父は忠昌ということになる。詳しくは各人の項目および「奥平氏」を参照。
- ^ 奥平家歴代当主に該当する名前の人物はいない。
- ^ もっとも、兄の子とは言え忠隣は彦左衛門より7歳ほど年上であり、甥というよりは従兄というような年齢ではある。
- ^ 数馬はちづか姫から「絶縁」されたことははない。
- ^ 新潮文庫版の解説より。
- ^ “ドラマ「恋しとよ 君恋しとよ」 ―山本周五郎・原作“彦左衛門外記”より―”. NHKクロニクル. 2019年5月7日閲覧。
- ^ “山本周五郎「天下の御意見番罷り通る!彦左衛門外記」”. ホームドラマチャンネル. Shochiku Broadcasting. 2019年5月7日閲覧。
- 1 彦左衛門外記とは
- 2 彦左衛門外記の概要
- 3 その他
- 4 書誌情報
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