建昌路とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 建昌路の意味・解説 

建昌路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 04:52 UTC 版)

モンゴル時代の江南投下領。建昌路は右に位置する。

建昌路(けんしょうろ)は、中国にかつて存在した大元ウルスの時代に現在の江西省撫州市南部一帯に設置された。治所は南城県で、大元ウルスの行政上は江西等処行中書省に属した。

華北済南路とともに、チンギス・カンの弟のカチウンを始祖とするカチウン・ウルスの投下領であった[1]

歴史

宋代建昌軍を前身とする。モンゴル帝国第5代皇帝セチェン・カアン(クビライ)によって南宋が平定されると、1281年(至元18年)に建昌路の65,000戸がカチウン王家の投下領として与えられた[2]1282年(至元19年)にダアリタイ・オッチギンを始祖とするダアリタイ家の投下領とされた南豊県が南豊州に昇格となって独立し、広昌県のみが南豊州を挟んで飛び地となった[3]。以後、南豊州を挟む形で建昌路は元末まで存続する[4]

朱元璋明朝を建国すると、建昌路は建昌府と改められた。

管轄州県

建昌路には録事司、3県が設置されていた。

3県

[5]

脚注

  1. ^ 植松 1997, p. 100.
  2. ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「太祖弟哈赤温大王子済南王位……江南戸鈔、至元十八年、分撥建昌路六万五千戸、計鈔二千六百錠」
  3. ^ ダアリタイ・ウルスの始祖のダアリタイ・オッチギンはチンギス・カンの一族でありながら敵側についたことで処刑された人物で、その子のタイナル・イェイェはカチウンの子のアルチダイの奴隷とされていた。その後、タイナルは武功を重ねて諸王待遇を取り戻しており、南豊州が建昌路から独立したのはこのような経緯が関係していると考えられる(松田2020,125-128頁)。
  4. ^ 『元史』巻62志14地理志5,「建昌路、下。本南城県、属撫州。宋升建昌軍。元至元十四年、改建昌路総管府、割南城置録事司。十九年、南豊県升州、直隷行省。戸九万二千二百二十三、口五十五万三千三百三十八」
  5. ^ 『元史』巻62志14地理志5,「建昌路……領司一・県三。録事司、至元十四年立。県三:南城、上。新城、中。広昌。中」

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  建昌路のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「建昌路」の関連用語

建昌路のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



建昌路のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの建昌路 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS