廣幡長忠とは? わかりやすく解説

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広幡長忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/23 08:06 UTC 版)

 
広幡長忠
時代 江戸時代中期
生誕 宝永8年4月4日1711年5月21日
死没 明和8年9月27日1771年11月3日
改名 長忠→承恵(法名)
官位 正二位権大納言
主君 中御門天皇桜町天皇桃園天皇
氏族 広幡家
父母 父:広幡豊忠、母:家女房
兄弟 忠誠、忠章、忠成、長忠、小倉宣季室、正親町実連
醍醐冬熙の娘、仲小路氏
前豊信通西園寺賞季室、観心院伊達重村室)
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広幡 長忠(ひろはた なかただ)は、江戸時代中期の公卿。官位は正二位権大納言まで進んでいる。広幡家3代。父は第2代当主の広幡豊忠内大臣)。妻は醍醐冬熙左大臣)の娘。子に広幡輔忠(前豊)(内大臣)、久我信通(久我家養子・内大臣)、娘に西園寺賞季室、伊達重村観心院がいる。

経歴

父・豊忠の跡を継いだ三人の兄が相次いで没したため、広幡家の当主となり、1720年(享保5年)に叙爵。以降累進して1728年(享保13年)に従三位に達して公卿に列する。1729年(享保14年)に踏歌節会外弁となり、1730年(享保15年)に権中納言1731年(享保16年)から1735年(享保20年)の間には皇太子昭仁親王(桜町天皇)の春宮大夫となる。同年正三位1735年(享保20年)に権大納言となった。1744年(延享元年)に正二位を授与された。しかし1756年(宝暦6年)に出家し、四十六歳にして朝廷を去った。法名は承恵。1771年(明和8年)に入寂。享年61。

系譜

関連項目

先代
広幡忠成
広幡家
第3代
次代
広幡前豊



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