平野縫殿とは? わかりやすく解説

平野縫殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 16:57 UTC 版)

平野 縫殿(ひらの ぬい、文化11年(1814年8月 - 明治16年(1883年12月3日)は、江戸時代末期(幕末)の下総佐倉藩の家老である。別名は重久、知秋。字は伯敬。弟に彌五郎(田中従吾軒)そして小永井五八郎[1]

文化11年(1814年)平野重美の家に生まれる。佐倉藩士の家柄であり、天保11年(1840年)からは江戸の昌平坂学問所で3年間を過ごした。帰郷後は藩主・堀田正睦に仕えて藩校・成徳館(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)の講師となり、そして教授にまで抜擢された。日米修好通商条約が調印された際には監察として同席。

将軍継嗣問題や条約勅許問題などで正睦が失脚し、堀田正倫が藩主になると、正倫の家老として仕えて藩政に参与する。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦い後、正倫は上洛して新政府に対し、徳川氏の存続と徳川慶喜追討令の取消を嘆願するが、かえって新政府に捕らえられて京都に拘禁されてしまった。このため、佐倉藩は藩主不在という危機を迎えたが、縫殿は家老として冷静に対処し、新政府から大多喜藩に対して出兵するように命令が下されると、佐幕派などの過激な意見を抑えた上で大多喜出兵に応じ、藩の危機を救っている。

明治時代には佐倉藩史を編纂するなど、文化活動に貢献した。明治16年(1883年)に死去。享年70。大正4年(1915年)に正五位を追贈された[2]

脚注

  1. ^ 文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』赤松範一、1938年、721頁。NDLJP:1231594/374 
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.36

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平野縫殿」の関連用語

平野縫殿のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平野縫殿のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの平野縫殿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS