平野信助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/19 02:06 UTC 版)
| 平野信助 贈七段 | |
|---|---|
| 名前 | 平野信助 |
| 生年月日 | 1891年5月19日 |
| 没年月日 | 1965年12月12日(74歳没) |
| プロ入り年月日 | 1918年(26歳) |
| 引退年月日 | 1947年(55歳) |
| 出身地 | 青森県 |
| 師匠 | 大崎熊雄九段 |
| 弟子 | 丸田祐三 |
| 段位 | 贈七段 |
| 順位戦最高クラス | B級 |
| 2023年6月4日現在 | |
平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月19日[1] - 1965年〈昭和40年〉12月12日[2])は、将棋棋士。贈七段。大崎熊雄門下。青森県出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人[3]。
人物
1891年(明治24年)青森市大町生まれ[4]。青森中学卒業後、第一高等学校の三部を受験し不合格となり[1]、第二高等学校に進学[5]、医学を志すも18歳の時に初期の肺結核となり進学を断念し高校中退[1][4]。
青森帰郷後に杉野岩太郎(当時二段)と知り合い、杉野を目標に棋力を付ける[1]。平野の棋力を認めた杉野の勧めで上京し、1918年(大正7年)4月に井上義雄の内弟子となり、付け出し四段となる[1]。同じころ、将棋同盟社に入会[1]。同年8月、体を悪くし一度帰郷[1]。
1924年(大正13年)に上京し、大崎熊雄門下となる[1]。この頃に五段[4]。1928年に六段[4]。
なお、本項目では、後に「四段以上がプロ棋士」という制度が発生したため、四段昇段の年を特筆して書いてあるが、当時は四段は特別な段位ではなかった(五段以上が高段者という概念はあった)。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、(囲碁と同じく)「初段からが専門棋士」だった[6]。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[7]。
1943年(昭和18年)2月の満州国将棋大成会発足時に現地へ赴任[8]、その際に七段昇段の扱いとなるも[9]、病のため帰国後も六段のままの扱いとなる[10][4]。
1945年(昭和20年)の空襲による家屋火災のため郷里の青森に戻り[1]、戦後の1946年の順位戦にはB級クラスで参加し14戦全敗。青森と東京を往復しての対局が堪えたこともあり[1]、順位戦参加は1期限りで1947年引退。
1964年11月、棋界功労者表彰式で七段を贈られる[11][注釈 1]。
1965年12月12日、水難事故により死去(享年74)[2]。同日より不明となっていたが翌1月5日、青森港で死亡が確認された[12]。
弟子
棋士
| 名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
|---|---|---|
| 丸田祐三 | 1946年4月1日 | 九段、タイトル挑戦4回、一般棋戦優勝10回、A級在籍 |
昇段履歴
- 1918年(大正7年) - 四段(付け出し、井上義雄門下、26歳)[1]
- 1924年(大正13年) - 五段(付け出し、大崎熊雄門下、34歳)[4]
- 1928年(昭和3年) - 六段 [4]
- 1947年(昭和22年) - 引退 [4]
- 1964年(昭和39年)11月3日 - 贈七段(棋界功労者表彰式)[4][11]
- 1965年(昭和40年)12月12日 - 死去(享年74)[2][4][10]
主な成績
在籍クラス
| 開始 年度 |
順位戦
出典[13]
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|||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | ||||
| 1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||
| 1946 | 1 | 六・七段戦 順位15位 |
0-14 (不戦敗9) |
|||||
| 順位戦の 枠表記 は挑戦者。 右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) |
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脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k 音羽高士「その後のあの人・平野信助七段の巻」『近代将棋 1958年12月号』1958年12月、257-258頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『将棋世界 1966年3月号』日本将棋連盟。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「日本将棋の歴史(8) - 将棋の歴史」『日本将棋連盟』。
- ^ a b c d e f g h i j 山川次彦七段「名局スクリーン・平野信助七段のこと」『近代将棋 1973年3月号』1973年3月、108-113頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 菅谷北斗星・溝呂木光治『将棋相談』千倉書房、1934年8月16日、12頁。
- ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36
- ^ 加藤治郎、原田泰夫、田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220
- ^ 『写真でつづる将棋昭和史』毎日コミュニケーションズ、1987年3月30日、70頁。
- ^ 『将棋月報 1943年3月号』将棋月報社。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 原田泰夫八段「棋談あれこれ」『近代将棋 1966年3月号』45-47頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 原田泰夫八段「棋談あれこれ」『近代将棋 1965年1月号』36-38頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『東奥年鑑 昭和41年』東奥日報社、1966年。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
関連項目
固有名詞の分類
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