平田恒雄とは? わかりやすく解説

平田恒雄

(平田恒男 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/20 01:03 UTC 版)

平田 恒男(平田 恒雄)
基本情報
国籍 日本
出身地 鹿児島県熊毛郡屋久町(現:屋久島町
生年月日 (1955-11-09) 1955年11月9日
没年月日 (2016-02-09) 2016年2月9日(60歳没)
身長
体重
178 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1978年 ドラフト4位
初出場 1981年5月2日
最終出場 1985年7月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 佐川急便(軟式)

平田 恒男(ひらた つねお、1955年11月9日 - 2016年2月9日[1])は、鹿児島県出身の元プロ野球選手外野手)。登録名は平田 恒男(読み同じ)。

来歴・人物

岐阜県中京商業高では、右翼手兼控え投手として1973年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では、1回戦で天理高に逆転負け[2]夏の選手権では高橋俊春のいた伊香高を破り2回戦に進むが、天理高の佐藤清投手に完封を喫する。この大会では2試合いずれも山北芳敏(明大)をリリーフし登板[3]。1年下のチームメートに一塁手原田末記がいた。

高校卒業後は、社会人野球三協精機に進むが、樋江井忠臣、伊藤弘利などの好投手がおり、都市対抗等の大舞台では活躍できなかった。

1978年のプロ野球ドラフト会議中日ドラゴンズから4位指名を受け入団。

投手として入団したが、一軍登板のないまま1981年より外野手に転向。同年は右翼手として3試合に先発出場、1番打者としても起用される。その後は主に代打、守備固めとして起用されるが、同時期に在籍した川又米利とタイプが同じなため、あまり出場機会には恵まれなかった。1985年限りで現役引退。

引退後は佐川急便野球部(軟式)に所属、元同僚の大河原栄栗岡英智らと共にプレーし、のちに同野球部の監督も務めた。

2016年2月9日、敗血症のため死去[1]。60歳没。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1981 中日 31 34 30 6 9 2 0 0 11 3 1 0 0 0 4 0 0 13 0 .300 .382 .367 .749
1982 15 14 13 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 1 5 0 .154 .214 .154 .368
1983 37 32 27 5 5 4 0 0 9 1 0 0 0 0 4 1 1 8 1 .185 .313 .333 .646
1985 9 7 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 3 0 .000 .143 .000 .143
通算:4年 92 87 76 12 16 6 0 0 22 4 1 0 0 0 9 1 2 29 1 .211 .310 .289 .600

記録

背番号

  • 43 (1979年 - 1985年)

出典・脚注

  1. ^ a b 元中日外野手・平田恒男氏が死去、60歳”. サンケイスポーツ (2016年2月11日). 2020年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月9日閲覧。
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」 朝日新聞社編 1989年

関連項目

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