岡山藩・友延新田(とものぶしんでん)
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「井田制」の記事における「岡山藩・友延新田(とものぶしんでん)」の解説
江戸時代、岡山藩主の池田光政・綱政親子は、重臣の津田永忠に命じて干拓地に友延新田(現在の備前市)を造成する際、古代中国に倣って井田制を適用した。友延新田は、南北に長い長方形の上井田(かみいた、1670年完成)と、正方形の下井田(しもいた、1688年完成)とから成り、後楽園内にもこれを模した100分の1規模の井田が設けられている。 儒教の理想的仁政を実現すべく、上井田の造成当初は9田に1田を公田とする運用で開始したが、やがて藩の財政危機や飢饉に見舞われて他の農地と同等の租税率に引き上げたため、実際には井田制として機能した期間はごく短い。下井田は、庶民の教育施設として創立した閑谷学校の財政基盤を支える校田に割り当てられた。
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