山里要害の城番
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/05 03:18 UTC 版)
天文24年(1555年)8月22日、彌六左衛門は毛利元就・隆元父子から「山里要害城番」を命じられた。指示書の中で父子は、恩賞の給地は子孫も知行できると約束しており、死の危険がともなう任務であったことをうかがわせている。同様の指示は西実世、新屋実満、蔵田彦五郎らにも出されている。西実世はこの年の4月に滅びた野間氏の旧臣であり、新屋実満および彌六左衛門も同様に野間氏の旧臣だった可能性が指摘されている。 天文24年8月の「山里」地域は、大内氏(陶氏)とこれに反旗を翻した毛利氏の勢力が対峙する極度の緊張状態にあった。彌六左衛門らが城番となった「山里要害」は、たびたび陶方の攻撃を受けたらしい。ともに城番だった新屋実満は、弘治2年(1556年)10月に毛利隆元から山里で給地を与えられている。
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