山里要害城番
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/30 14:41 UTC 版)
生き残った実世は、毛利氏に仕えることになった。天文24年(1555年)8月22日、実世は毛利元就・隆元父子から「山里要害城番」を命じられている。指示書の中で父子は、恩賞の給地は子孫も知行できると約束しており、死の危険がともなう任務であったことをうかがわせている。同様の指示は末永彌六左衛門、新屋実満、蔵田彦五郎らにも出されている。彌六左衛門や新屋実満も実世と同様に野間氏の旧臣だった可能性が指摘されている。 天文24年8月の「山里」地域は、大内氏(陶氏)とこれに反旗を翻した毛利氏の勢力が対峙する極度の緊張状態にあった。実世らが城番となった「山里要害」は、たびたび陶方の攻撃を受けたらしい。 その後の実世の動向は不明だが、彼の次代とみられる西六右衛門も毛利氏に仕えており、天正19年(1591年)時点で、周防国玖珂郡に8石余の給地を持っている。
※この「山里要害城番」の解説は、「西実世」の解説の一部です。
「山里要害城番」を含む「西実世」の記事については、「西実世」の概要を参照ください。
- 山里要害城番のページへのリンク