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山崎友造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/17 14:13 UTC 版)

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山崎 友造(やまざき ともぞう、1873年明治6年)7月 - 1926年大正15年)9月27日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

1873年明治6年)、旧紀州藩士・山崎亀蔵の次男として和歌山県に生まれる。15 歳で旧藩から抜擢され上京、陸軍幼年学校に入学した。1894年(明治27年)7月27日[2]陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月18日[2]砲兵少尉に任官。大阪砲兵工廠勤務の折、栗山勝三少佐の次女・幸子と結婚。1903年(明治 36 年)、砲兵大尉としてドイツに留学。1908年(明治41年)帰国して、東京砲兵工廠製造所長[3]1916年大正5 年) 4月1日、火工廠宇治火薬製造所[4]1919年(大正 8 年)、前所長西郷寅太郎の死去を受けて、同年1月15日、習志野俘虜収容所長に就任、ドイツ捕虜の本国送還に尽力する。同年11月25日、砲兵大佐から陸軍少将に昇進[5]。大正9年4月1日の収容所閉鎖と共に待命。同年7月16日[4]予備役編入となる。

栄典

  • 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章明治三十七八年従軍記章[6]
  • ロシア帝国神聖アンナ第二等勲章 [7]
  • アジア歴史資料センター、レファレンスコードA11112752900「陸軍少将山崎友造外百七名叙位ノ件」(大正8年12月)では、従五位勲三等から正五位に、さらにA11112818000「陸軍少将山崎友造外二名特旨叙位ノ件」(大正9年8月)では、従四位に叙されている。

脚注

  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』758頁。
  2. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』111頁。
  3. ^ 『官報』第7470号、明治41年5月23日。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』118頁。
  5. ^ 『官報』第2194号、大正8年11月26日。
  6. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
  7. ^ アジア歴史資料センター、レファレンスコードA10112847800「陸軍中将村岡恒利外八名外国勲章受領及佩用ノ件」(大正6年10月)

参考文献

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

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