山吉豐守とは? わかりやすく解説

山吉豊守(やまよし とよもり) 1541~1577

孫次郎
◇父:山吉政応 弟:山吉景長
 越後三条長尾氏臣として三条城任せられる上杉謙信側近として奏者務める。外交折衝手腕見せ1575年筆頭家老にもなるが、36歳病死

山吉豊守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:07 UTC 版)

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山吉 豊守
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永5年(1525年
死没 天正3年(1575年)または天正5年(1577年
別名 豊盛、孫次郎、孫二郎
官位 丹波?
主君 上杉謙信
氏族 桓武平氏頼盛流山吉氏
父母 父:山吉政応[1][2]または山吉政久[3]
母:高梨頼宗娘
兄弟 直江景綱継室、豊守
正室:本庄実乃
盛信、景長(景盛)
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山吉 豊守(やまよし とよもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上杉氏の家臣。越後国三条城主。

略歴

大永5年(1525年)、山吉政応あるいは山吉政久の子として誕生。『山吉家家譜』によれば天文21年(1552年)4月、父・政久の隠居により家督を継いだとされる。

永禄末年から御奏者として上杉謙信の側にあり、関東の諸豪族や後北条氏とも折衝した。天正年間の『上杉家軍役帳』では、家中筆頭の軍役数377名を持った。謙信の越中国出陣の際は、春日山城の留守居を務めた。

天正3年(1575年)同5年(1577年)頃に死去。嫡男・盛信が家督を継ぐが間もなく急死したため、盛信の弟・景長(景盛)が跡を継ぐが、相次ぐ当主の死と景長が若年のため、減封のうえ木場城に領地替えとなった。

脚注

  1. ^ 『山吉系図』
  2. ^ 『上杉御年譜』
  3. ^ 『山吉家家譜』

出典

  • 『山吉系図』
  • 『上杉御年譜』
  • 『山吉家家譜』
  • 『上杉家軍役帳』

山吉豊守(やまよし とよもり)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)

センゴク」の記事における「山吉豊守(やまよし とよもり)」の解説

通称孫次郎上杉家の家臣

※この「山吉豊守(やまよし とよもり)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「山吉豊守(やまよし とよもり)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。

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