宮地氏について
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宮地氏は備中宮地の出といわれる次政が初代である。 6代後の宮地資弘が金蓮寺の薬師堂を建立しているが、そこに大願主宮地大炊助大江資弘とあるように、大江氏の流れを汲み因島宮地氏の居城 大江城はこの事に拠るという。 鳴滝城主宮地氏は次政の後、宮地広義(兵部太郎)・宮地広俊(兵部次郎)と続いたが、1423年(応永30年)、宮地恒躬(兵部大輔)の代に、大平山城(尾道市美郷町)の城主 木頃経兼の奇襲にあって落城した。 言い伝えによると、恒躬は久山田(尾道市)の守武谷まで逃れたが敗死し、その妻 鈴御前も栗原町門田辺りで捕らわれ殺害されたという。鈴御前は木梨杉原氏から嫁いだとされている。
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