室点蜜とは? わかりやすく解説

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室点蜜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 16:02 UTC 版)

室点蜜呉音:しちてんみつ、漢音:しつてんびつ、拼音:Shìdiǎnmì、? - 576年頃)は、突厥の西面可汗もしくは葉護(ヤブグ:官名)。吐務の子で、伊利可汗の弟、達頭可汗の父。また室點蜜[1]室點密可汗[2]とも表記される。姓は阿史那氏、別名は瑟帝米(しつていべい)という。東ローマ史料のディザブロス(Dizaboulos)[3]ディルジブロス(Dilziboulos)[4]シルジブロス(Silziboulos)[5]、アラブ史料のシンジブー(Sinjibū)[6]突厥碑文イステミ・カガン - Istemi qaγan[7]に当たる人物とされている。


  1. ^ 『新唐書』
  2. ^ 『旧唐書』
  3. ^ メナンドロス第18節、20節
  4. ^ メナンドロス第43節
  5. ^ メナンドロス第10節
  6. ^ タバリー『諸使徒と諸王の歴史』
  7. ^ ホショ・ツァイダム碑文
  8. ^ 内田 1975
  9. ^ 内田吟風はこの文章を「室点蜜は単于を従え、十大首領を統領し、兵十万衆を有し、西域諸胡国を住平す」と読んで、ここの「単于」をハウスィヒの説に拠って、targütの音写とし、「室点蜜がエフタル、柔然の西トルキスタンにおける勢力を一掃し、また単于すなわち東ローマ史料の云うtargütに率いられたフンの余衆をも併合した大勢力を樹立」したころのことをいったものであろう、と述べた。しかし、ここはシャヴァンヌや松田寿男のように「単于に従って」と訳すべきである。中国の歴史家は匈奴国家の崩壊後も、北アジアの諸遊牧国家を「匈奴」と称し、その君主を「単于」と呼ぶことが多かったから、ここの「単于」は「可汗」と読みかえていっこうに差しつかえない。シャヴァンヌも「(この「単于」は)疑いもなく、室点密(イステミ)の兄の土門(ブミン)可汗を指す」と言う。ただし、室点密(シルジブロス)が独力で中央アジアの征服に当たり、土門に従ったのではないこと、また本文中にいわゆる「十大首領」「兵衆十万」の十という数字が、松田寿男の指摘したように「十姓部落」の「十」と関係しているらしいことから考えて、この文章が事実をそのまま伝えたものではないことを認めるに、けっしてやぶさかではない、と護雅夫も言う。(佐口・山田・護 1972,p244,245)
  10. ^ 佐口・山田・護 1972,p242
  11. ^ ここに記されている系譜が疑わしいことについては、松田寿男「西突厥王庭考」を参照されたい。
  12. ^ 「歩迦」はテュルク語で「賢明な」を意味する「ビルゲ(bilgä)」か、これとほぼ同義の「ボグ(bögü)」かの音写であろう。
  13. ^ 佐口・山田・護 1972,p260
  14. ^ TÜRIK BITIG ビルゲ・カガン碑文
  15. ^ 第43節には、タルドゥ可汗の居住地として、「エクテル」という山が記されているが、これは「エクタグ」と同一である。これらはいずれも「金の山」という意味を持っていると記されているが、これに従えば、トルコ語の「アルトゥン・タグ(Altuntag):金の山」、すなわち突厥発祥の地とされているアルタイ山と同一名である。しかしトルコ語で「アク・タグ(Ak tag):白い山」であるとすると、クチャの北の天山中の山である。後者をとる白鳥庫吉は、白山が阿羯(田)山と呼ばれていたことを指摘して、「阿羯」が「アク」に当たることを述べ(白鳥庫吉「烏孫に就いての考」『西域史研究 上』p17-18)、さらに松田寿男はこの山をユルドゥズ渓谷中のエシェク・バシ・オラに比定した(松田寿男「西突厥王庭考」『古代天山の歴史地理学的研究』p260-274)。
  16. ^ 突厥をはじめとして北方遊牧民の飲用する酒は、馬乳酒、すなわち「クミズ」である。『隋書』突厥伝が「馬酪を飲む」と記しているのも同じである。メナンドロスの記録に「ブドウの搾り汁に似ている」とされているのは、クミズの成熟しないものが、酸っぱいためではないだろうか。
  17. ^ ケルキスはキルギスである。キルギスと突厥との関係は非常に古く、その始祖伝説の一つにも、「契骨」の名がみえている。『周書』突厥伝には、木汗可汗が「西のかた嚈噠(エフタル)を破り、東は契丹を走らせ、北は契骨を併せ、塞外諸国を威服す」とあって、キルギスを支配している。以後も良質の鉄を突厥に輸出していたことから、突厥に結びついていたことは、前述のとおりである。さらに『新唐書』黠戛斯伝によれば、突厥はキルギスの首豪に突厥の女を与えて妻としているし、さらにキルギスの君主阿熱の母は突騎施の女である。これは突厥の堅昆政策であるが、立場はいずれも突厥が上である。そして反対にキルギスの女は捕虜或いは奴隷として突厥に入ってきていたにちがいなく、ディザブロスがゼマルコスに与えたのも、そのような女であったと思われる。
  18. ^ 内藤 1988,p378-380
  19. ^ 金原保夫「第2篇東欧民族の移動期 第3章ブルガール族の国家「大ブルガリア」について」p22


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