実在の可能性がある人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 08:24 UTC 版)
「尼子十勇士」の記事における「実在の可能性がある人物」の解説
現存する当時の書状等では存在が確認できないが、軍記史料や江戸時代初期の書状等にその名が記載され、実在の可能性がある人物もいる。 五月早苗介(五月早苗之助、植田稲葉助、植田早苗助、上田稲葉之介、植田早苗之助、五月早稲之介、皐月早苗之介、皐月早苗之助、植田早苗介、植田早稲之介、植田早稲之介) 元亀元年6月8日、吉川元春から掘立壱岐守宛への書状に、「上田早苗助」が同年6月3日に佐陀勝間城を攻撃して討ち死にしたと記載される。 尼子氏の家臣の知行高を記した文書、『尼子家分限牒(あまごけぶんげんちょう)』に「五月早苗之介」の名前がある。備中国の内、8,013石を所領した。 『雲陽軍実記』に「五月早苗介」の名が記載されている。 藪中荊助(薮原茨之介、藪中茨之助、藪中荊之助、藪中荊介、藪中荊之介) 『雲陽軍実記』に「藪中荊之助」の名が記載されている。 寺本生死助(寺本生死之助、寺本生死介、寺本生死之介) 『太閤記』にその名が記載される。元の名を寺本半四郎といって、山中甚次郎(山中幸盛)、秋宅甚介(秋上宗信)と共に、名前を山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と変えた。 井筒女之介 『陰徳太平記』に吉川元春配下の境又平春久の注釈に「後に井筒女助と号す」と記載がある。
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