天狗党の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 17:25 UTC 版)
天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の乱(げんじかっしのらん)[注 1][1]ともいう。
注釈
- ^ 元治元年(甲子年)に起こったことから。
- ^ 幕府陸軍約3300人、高崎藩・笠間藩兵約2000人に、諸生党が結成した追討軍数百人が追従した。
- ^ 大挙して水戸に進発した一団を「大発勢」と呼ぶ。
- ^ 昭和16年(1941年)に作られた『明治維新水戸風雲録』では、この軍議の際に耕雲斎は最期の一戦を仕掛け討ち死にする事を主張したが、小四郎が反対し上洛する事に決まったという。
- ^ 天狗党が諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことは、島崎藤村の代表作『夜明け前』にも記述されている。
- ^ 大目付の黒川盛泰らが従軍。
- ^ ただし、加賀藩側の天狗党に対する評価は「是に於てか、尊王も佐幕もなく、攘夷もなく開国もない。唯有るものは一藩内の勢力争奪の為めにする交刃と砲火とのみであった」というものであった。(『水戸浪士西上録』218頁。石川県図書館協会、1934年)
- ^ 細布(さいみ)と呼ばれる麻の、官軍支給品の陣羽織を着用していた。
- ^ 水戸藩出身で維新の功労で唯一爵位を受けた香川敬三は文久3年の上洛後に水戸に帰還せずに京都で尊皇攘夷運動を続けていたために結果的に一連の水戸藩の争乱に巻き込まれなかったことによる。
- ^ 「九重の里」とは宮中のことだとされる。
- ^ 但し横瀬夜雨の『天狗塚』では、討伐されたのは12人のはずが昭和の改葬の際に掘り出したところ19人分の骨が出てきたとされ、素人の数え間違いか古い塚か墓に投げ込んだからではないかと推測している。
出典
- ^ a b 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 186.
- ^ 『水戸学と明治維新』 2003, p. 179.
- ^ 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 192.
- ^ 『明治維新と世界認識体系』 2010, pp. 222–223.
- ^ a b 『幕末水戸藩と民衆運動』 2005, p. 175.
- ^ 『栃木市史 通史編』 1988, pp. 874–876.
- ^ 『明治維新と世界認識体系』 2010, pp. 232–233.
- ^ 『明治維新と世界認識体系』 2010, pp. 228–231.
- ^ 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 329–331.
- ^ 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 300–301.
- ^ 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 336.
- ^ 『幕末水戸藩と民衆運動』 2005, p. 177.
- ^ 『幕末水戸藩と民衆運動』 2005, pp. 178–179.
- ^ 『幕末水戸藩と民衆運動』 2005, p. 180.
- ^ 『幕末水戸藩と民衆運動』 2005, p. 176.
- ^ 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 338–340.
- ^ 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 340.
- ^ 『茨城県の地名』 1982, p. 217.
- ^ 佐藤 1988, pp. 91–92.
- ^ 金子 1995, pp. 382–383.
- ^ 入間清『幕末、残り火燃ゆ-桜田門外変後の水戸藩と天狗党の変-』総合出版社歴研、2014年9月9日発行(134-135ページ)
- ^ 佐藤 1988, p. 92.
- ^ 『幕末維新(第5編)』山内家史料刊行委員会編纂、672頁
- ^ a b c 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年
- ^ 『土佐維新史料』書翰篇(1)
- ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
- ^ 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。
- ^ 『武田金次郎』 2001, p. 59.
- ^ 『覚書 幕末の水戸藩』 1991, p. 366.
- ^ a b c 『相楽総三とその同志』 2015, p. 372.
- ^ 『歴史を射つ』御茶の水書房、2015年、281頁。
- ^ 徳田 編 1972, p. 10.
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