城島城落城と戦国大名としての西牟田氏の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 18:30 UTC 版)
「西牟田氏」の記事における「城島城落城と戦国大名としての西牟田氏の滅亡」の解説
天正14年(1586年)、今度は九州統一を目指す薩摩軍3万が筑後を目指し北上、同年6月には城島城を攻めた。西牟田兄弟は300余騎の城兵とともにこれを防いで戦ったが、ついに抗しきれず肥前へ落ちた。 西牟田兄弟が前年の大友勢との戦いの時のように徹底抗戦せず、島津氏へ居城を明け渡したのは、島津氏の猛攻もさることながら、既に龍造寺氏が島津氏と和睦していたからだとも考えられる。龍造寺氏(鍋島氏)は、島津氏と講和する一方で、豊臣秀吉と連絡を取り合っており、秀吉の九州下向を待って一気に島津を討つ方針であった。 龍造寺氏は秀吉軍とともに島津氏と戦い、筑後から島津氏の勢力を駆逐した。しかし九州平定後の秀吉は、明・朝鮮への出兵を見据えてか、「九州国割りの人事は、新旧交替の思いきった新しい方針」で臨んだ。このため、かつての「筑後十五城」の城主たちは、自らの領地へかえり咲くことはかなわなかった。ここに400年にわたる西牟田氏による西牟田支配も終焉することとなる。 西牟田新助、親右衛門兄弟は肥前佐賀へ移り、龍造寺氏(のち鍋島氏)に仕えた。
※この「城島城落城と戦国大名としての西牟田氏の滅亡」の解説は、「西牟田氏」の解説の一部です。
「城島城落城と戦国大名としての西牟田氏の滅亡」を含む「西牟田氏」の記事については、「西牟田氏」の概要を参照ください。
- 城島城落城と戦国大名としての西牟田氏の滅亡のページへのリンク