土予国境争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:58 UTC 版)
徐々に土佐と伊予の勢力が沖の島へと及び、室町時代には島が両国によって分断される。江戸幕府藩政時代に入ると、再び領有権問題が勃発し、幕府の法廷により、土佐藩と宇和島藩との領土争いが展開された。国境争いは土佐藩家老・野中兼山の活躍などにより、土佐側の主張がほぼ認められる形で決着し、島内に土予国境が確定した。このような歴史的経緯により、弘瀬側は土佐、母島側は伊予と一つの島に異なる伝統や風習が語り継がれ、独自の風土を形成している。
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