国定教科書への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 03:35 UTC 版)
人物主義が導入されてまもなく、日清戦争が勃発し、国家主義の傾向が高まると修身教科書の国定化が議論されるようになった。福沢諭吉、外山正一らは国定化に反発する意見を表明したが、1902年(明治35年)に教科書疑獄事件が発生したことによる世論の支持を受け、翌1903年(明治36年)の小学校令改正を経て、1904年(明治37年)に第1期国定教科書が誕生した。 第1期国定教科書は、徳目主義と人物主義を併用するという編集方針の元に作成されたが、各界から批判が集中した。特に人物主義の根底をなすヘルバルト学派からは、人物伝が細切れになって児童の関心を無視していることや無理に人物伝を徳目と結び付けていると非難された。 この批判を受けて1910年(明治43年)に発刊された第2期国定教科書は、1人の人物を3課に渡って取り上げる、という配慮が見られた。その後、第3期から第5期まで国定教科書は強調点を変えながら改訂されたが、基本的には徳目主義と人物主義を踏襲した。
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