四百人寡頭政治の打倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 23:20 UTC 版)
「クリティアス (三十人僭主)」の記事における「四百人寡頭政治の打倒」の解説
紀元前411年、アルキビアデスの政敵であった民主派の首領アンドロクレス(Androkles, ?-紀元前411)が暗殺される。トゥキディデスの師匠とも言われる弁論家アンティポン及び扇動家ペイサンドロス(Peisandoros, 紀元前5世紀後半)が首謀となってクーデターを起こし、アテナイに寡頭派による政権(四百人寡頭政(英語版))が成立した。クリティアスの父カライスクロス (Kallaischros) も政権に参加していたが、クリティアス本人が政権に参加していたかどうかは不明である。 四百人寡頭政治は権力闘争により内部分裂を起こし、四ヶ月後プリュニコス(Phrynichos, ?-紀元前411)が暗殺されると、クリティアスは、暗殺されたプリュニコスを弾劾裁判にかけるよう提案し、当初四百人寡頭政の重要なメンバーであったテラメネス (Theramenes, ?-紀元前403) 、アリストクラテス(Aristocrates, ?-紀元前406)らの賛同を得る。同じ頃、サモスで民主政の堅持を訴えていた民主派の軍人トラシュブロス(Thrasyboulos, 紀元前5世紀後半-388)がアテナイへ凱旋すると、四百人寡頭政は崩壊し、アンティポンは処刑され、ペイサンドロスらはデケレイアにあるスパルタの要塞へ亡命した。クリティアスはトラシュブロスらと共に、アルキビアデスのアテナイ帰還を訴え、アルキビアデスはサモスのアテナイ艦隊の総司令官として迎えられる。 紀元前410年、アテナイに民主政が復活する。アルキビアデス率いるアテナイの艦隊がキュジコスの海戦でスパルタ軍を破ると、再び主戦民主派が活気付く。民主派の主導者クレオポン(Kleophon, ?-紀元前404)は、スパルタの和平の申し出を断り、戦争を続行する。アルキビアデスはカルケドンやビザンティオンなどを奪回し、紀元前408/407年頃に祖国アテナイへ凱旋帰国を果たす。
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