和泉守兼定 (十一代会津兼定)とは? わかりやすく解説

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和泉守兼定 (十一代会津兼定)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/09 03:47 UTC 版)

和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、1838年1月8日天保8年12月13日[1] - 1903年明治36年)3月28日)は、会津兼定のうち11代目に相当する、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した刀工[2]。加茂打ちと呼ばれる1869年(明治2年)から1874年(明治7年)までに越後加茂にて鍛刀した作品で知られ[2]、1892年(明治25年)には皇太子に刀を献納する[2]。銘は「陸奥国会津住兼元」「奥州会陽臣和泉守兼㝎」「会津刀匠和泉守兼㝎」「岩代国若松住和泉守兼㝎」「於新発田和泉守藤原兼㝎謹鍛」「大日本岩城国会津住兼㝎」[3]「奥州會津住兼本」「和泉守兼定」「岩代國會津住兼定」[4]

来歴

1838年1月8日(天保8年12月13日)に会津若松浄光寺町に生まれる。幼名は友弥[3]。1852年(嘉永5年)から会津藩に勤め、この時は刀に兼本と銘を入れる[3]。1863年(文久3年)に古川清左衛門と名乗るようになり[3]、12月に受領名である和泉守を得る[2]。この時銘を兼定に変更する[3]。1868年(慶応4年)8月に家督を継ぐ[2]。1869年(明治2年)9月から加茂にて鍛刀し、1874年(明治7年)9月に若松に帰郷する[3][2]。1876年(明治9年)からは福島県に勤め、1892年(明治25年)6月に皇太子に自身の打った刀を奉じる[2]。1903年(明治36年)1月に陸軍砲兵工場にある日本刀鍛錬所にて鍛刀を続けるが、3月に東京にて67歳で没する[5][2]

脚注

出典

  1. ^ 『日本刀の真贋』工芸出版、1977年、p.118。
  2. ^ a b c d e f g h 飯田一雄『日本刀工 刀銘大鑑』(初)淡交社、2016年3月7日、137頁。ISBN 978-4-473-04075-6NCID BB20941782 
  3. ^ a b c d e f 得能 2004, p. 85.
  4. ^ 得能一男『普及新版 日本刀事典』(初)光芸、2003年6月18日、152頁。 ISBN 4769401167NCID BA63136408 
  5. ^ 得能 2004, pp. 85–86.

参考文献




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