反ロン・ノル闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 10:21 UTC 版)
「キュー・サムファン」の記事における「反ロン・ノル闘争」の解説
1970年3月、クーデターにより追放されたシハヌークが反ロン・ノル闘争を呼びかけると、ニム、ユオンとともにジャングルからこれを支持する声明を発表した。しかし、彼らは警察によって殺害されたと推測されていた為、プノンペンでは「三人の亡霊」と呼ばれた。同年5月4日、北京において「カンボジア王国民族連合政府」が樹立されると、国内に留まりながら国防大臣に任命され、また「カンプチア民族統一戦線」中央政治局委員に選ばれた。さらに8月22日より、連合政府副首相を兼任した。1971年6月6日、民族解放軍最高司令官に任命。 しかし、実際のゲリラ闘争を指揮したのはポル・ポトらの共産党指導部であり、サムファンらは「表の顔」にすぎなかった。1971年、共産党中央委員会に加わったが、党中央委員候補であったと推定されている。1972年12月に結婚し、ポル・ポトが仲人を務めた。
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