南都教団への対抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:37 UTC 版)
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
※この「南都教団への対抗」の解説は、「三一権実諍論」の解説の一部です。
「南都教団への対抗」を含む「三一権実諍論」の記事については、「三一権実諍論」の概要を参照ください。
- 南都教団への対抗のページへのリンク