千切屋一門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:13 UTC 版)
一門系図によると主たる同族数十家を算し、そのほとんどが法衣を業とし、一部が両替と呉服を扱っていた。最盛期には百余軒を数えた一門も安永5年(1776年)には62軒となった。寛政元年(1789年)には、衣棚町33戸中、13戸を千切屋が占め、町内総人口の半数にあたる使用人の3分の2以上が千切屋一門の雇人だった。同町の千切屋の数は享和(1801年)の頃より減り始め、幕末の元治元年(1864年)には衣棚町33戸中千切屋一門は4戸に減少するが、町内使用人の大多数は千切屋の雇人だった。衣棚町より転居する者、法衣業から他に転ずる者も少なくないが、一門の結合は固く、一門の繁栄を目的に価格等の統制をする祇園講、機屋と仲買に対して西陣織の仕入・販売値段の決定をする春日講が設けられていた。
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