北条泰時以降の供養堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
その次ぎの代、北条泰時は『吾妻鏡』に「故前の武州禅室(泰時)周関の御仏事、山内粟船御堂に於いてこれを修せらる」とあり、鎌倉の外、当時山内の常楽寺である。その次ぎの執権北条経時の墓所は当初は佐々目谷にあった浄土宗の光明寺であり、正嘉2年(1258年)に弟の時頼が佐々目谷の塔婆を供養したとある。その時頼は祖父の泰時同様に鎌倉の外、山内の最明寺(現明月院)。その子北条時宗から三代は円覚寺である。得宗家以外の執権・連署クラスも鎌倉の外の金沢(当時の読みは「かねさわ」)、極楽寺、常磐に別業(私邸)を持ち、多くはその屋敷地内の持仏堂を寺として葬られている。また各寺院の長老の墓もやぐらではなく五輪塔とか開山堂などである。
※この「北条泰時以降の供養堂」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「北条泰時以降の供養堂」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。
- 北条泰時以降の供養堂のページへのリンク