北朝鮮帰国後
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1965年5月23日、家族の意向により、両親、兄、妹、弟とともに、帰国事業第125次船に乗って新潟港から北朝鮮へと出国し、5月25日、清津に到着した。その後、消息は途絶えていたが、清津市の鉄工所で「職業体育」の野球を続けて勤労者の大会で活躍し、1973年から平壌市の「平壌鉄道体育団」の野球チームに弟と共に所属していたことや、1974年に平壌市、沙里院市、新義州市、南浦市で行なわれたキューバ代表との試合に北朝鮮代表の投手として出場し、本塁打も1本打っていたことが後年明らかになった。 1977年に清津の鉄工所へ戻り、1979年7月5日、事故により死去した。勤務中の事故死であったため、「社会主義建設愛国者」に列せられた。
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