北帯方・南帯方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 15:51 UTC 版)
『三国遺事』によると帯方郡には南北の二つがあるという。実際の位置は北帯方が南、南帯方が北になる。南帯方は本来の帯方郡からみて南なので理解できるが、北帯方はどこから見て・なにと比べて「北」というのか不明。『三国遺事』が南北を逆に誤記しているとも考えられる。 北帯方 前漢が楽浪郡と同時に設置(紀元前108年)した郡で、その郡治は今の全羅南道羅州市にあった。これが正しいとすると漢四郡(楽浪・玄菟・臨屯・真番)は実は漢五郡だったことになる。その後(紀元前82年?)独立国を自称(帯方国)していたが、37年に高句麗に滅ぼされたという。 南帯方 魏(220年 - 265年)の時代に今の全羅北道南原市に郡治が置かれたという。これが正しいとすると魏が遼東の公孫氏を滅ぼしその楽浪郡と帯方郡を接収した238年以降のある時、魏は一時的にせよ帯方郡を大きく南へ移動させたことになる。このような史実は仮にあったとしても瞬間風速的なもので永続的なものではなく、候補として考えられる事件としては、魏が馬韓の反乱を鎮圧した245/246年の出来事かとも思われる。
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