加藤信夫 (野球)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/12 02:14 UTC 版)
| 基本情報 | |
|---|---|
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1917年4月2日 |
| 没年月日 | 戦死 |
| 身長 体重 |
160[1] cm 56[1] kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 二塁手、三塁手、捕手[2] |
| プロ入り | 1936年 |
| 初出場 | 1936年7月11日 |
| 最終出場 | 1937年11月29日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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加藤 信夫(かとう のぶお、1917年4月2日[2] - 戦死)は愛知県出身のプロ野球選手。
来歴・人物
中京商業学校(現:中京大学附属中京高等学校)在学中、チームは甲子園に3回出場(1933年春、1933年夏、1934年春)したが、加藤自身は補欠だった[2]。
中京商を卒業後、1936年に専修大学に入学。しかし、同年7月に佐々木政の斡旋により大阪タイガースに電撃入団(このため、専大を僅か半年で中退せざるを得なくなった)。この入団の裏には滝野通則(後にプロ野球審判員)が契約不履行を犯し(タイガースと契約し選手登録も済んだが、許可なく法政大学に進学した)、職業野球聯盟から除名処分(滝野が除名第一号選手でもある)を受けたため、阪神の内野陣が不足した事情があったと言われている[2]。
入団後は小島利男の入団・台頭や藤村富美男のコンバート(投手から二塁手へ)があったことも影響して、出場機会にはほとんど恵まれなかった。選手としては18試合(捕手1試合、二塁手10試合、三塁手1試合)[2]の出場にとどまった。一方で、裏方としてチームを支えた面もあり、1937年には青木正一と共に「打倒沢村」をモットーに打撃投手役を務めた。その練習法とは、通常の投球位置の1m手前から投げるという当時では斬新な物だった[3]。練習の甲斐があって、タイガースはこの年のペナントを制した。
1938年1月に応召され、戦死(没年月日、死没場所は不明)した。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。
詳細情報
年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1936春 | 大阪 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 |
| 1936秋 | 6 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 | |
| 1937春 | 6 | 4 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 2 | -- | .333 | .500 | .333 | .833 | |
| 1937秋 | 4 | 2 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | .500 | .500 | .500 | 1.000 | |
| 通算:2年 | 18 | 9 | 8 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 2 | -- | .250 | .333 | .250 | .583 | |
背番号
- 20 (1936年 - 1937年)[2]
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 加藤信夫 - NPB.jp 日本野球機構
- 加藤信夫_(野球)のページへのリンク