再度の帰郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 13:33 UTC 版)
建安元年(196年)、鄭玄は徐州を離れ高密県に帰還した。道々で黄巾の残党数万人と遭遇したが、賊らは鄭玄を見ると皆拝礼し、またお互いに県境へ侵入しないよう約束した。その後、鄭玄は病が篤くなったため子に書をしたためた(戒子書)。 建安5年(200年)、袁紹は鄭玄を賓客として呼び寄せた。袁紹は鄭玄を茂才に推挙し、左中郎将に任命させようとしたが、鄭玄は全て辞退した。やがて大司農に推薦されたものの、鄭玄は病を理由に家に戻った。この頃、夢枕に孔子が現れたため、鄭玄は自分の寿命が近い事を悟り、やがて寝たきりとなった。この頃は、袁紹と曹操が官渡で争っていた時期であり、袁紹は子の袁譚に命じて鄭玄を随軍させようとしたが、応じさせる事はできなかった。鄭玄は元城県まで来たところで病が篤くなり、同年6月に死去した。74歳であった。葬儀は薄葬とするよう遺言したという。
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