冀東防共自治政府と通州事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 15:41 UTC 版)
「殷汝耕」の記事における「冀東防共自治政府と通州事件」の解説
同年11月25日、土肥原賢二に誘われる形で、殷汝耕は「冀東防共自治委員会」の成立と自治を宣言した。これにより、殷に対して国民政府は逮捕令を発している。翌月、委員会は冀東防共自治政府に改組され、殷は政務長官に就任した。 しかし1937年(民国26年)7月、かねてから国民革命軍第29軍軍長宋哲元と秘密裏に連絡を取り合っていた冀東保安隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田が蜂起し、殷汝耕は捕縛されてしまった(通州事件)。張慶余は、捕らえた殷を宋に引き渡そうと北平に護送した。ところが、宋はすでに北平を離れており、日本軍と遭遇した護送部隊は蹴散らされてしまう。 混乱の中で、殷汝耕は北平城内に逃げ込んで身を隠した。しかし日本軍は、殷を通州事件の首謀者と誤解していたため、まもなく殷は日本軍により逮捕されてしまう。危うく処刑されそうになった殷だったが、かねてから親交のあった頭山満の斡旋で辛うじて助命された。しかし、政務長官は辞任することになる(後任は秘書長の池宗墨)。その後5年間は、日本からの通告もあって、殷は北平に隠棲、蟄居することになる。
※この「冀東防共自治政府と通州事件」の解説は、「殷汝耕」の解説の一部です。
「冀東防共自治政府と通州事件」を含む「殷汝耕」の記事については、「殷汝耕」の概要を参照ください。
- 冀東防共自治政府と通州事件のページへのリンク