依田伴蔵
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依田 伴蔵(よだ ばんぞう、文政6年3月23日(1823年5月3日) - 慶応2年7月9日(1866年8月18日))は、江戸時代後期の武士(宮津藩士)。諱は直恒、号は翠竹。
経歴
丹後宮津藩士に生まれる。少壮より藩主・松平宗秀の信任を得て、京都の鈴木恕平に経学を学ぶ。のち江戸に遣わされ、幕府講武所頭取・窪田源太夫より山鹿流兵学と窪田派田宮流の剣術を習得する。帰国後は藩主より軍政改革を委任され、軍監として風紀を刷新、軍務一切を掌握し、門弟を集めて兵学、剣術を指導した[1]。
慶応2年(1866年)の第二次長州征討に従軍する。両軍が山陽道の難所である安芸国大野村四十八坂で対峙中の7月9日、幕府軍は長州軍への和平の軍使として依田の派遣を決定する。依田は猩猩緋の陣羽織を着て、双眼鏡を携えて馬に乗り、ただ一人で長州陣に向かったが、戦闘員と見誤った長州軍に狙撃され、「残念」の言葉を残して絶命した[2]。
長州軍は依田が和平の軍使と知って遺憾の意を表し、墓標を建てて懇ろに葬り、地元の人は依田を悼しみ、依田伴蔵を祀る「残念さん」と言われる神社を建てた。社には「命を奉げて単騎敵営に向かう 哀心願う所は只和平 惜しいかな涙を呑んで道中散る斃(たおれ)る 暮畔長に留る残念の声」と説明が書かれており、供養祭が開かれている[3]。
系譜
参考文献
- 京都府与謝郡 編『与謝郡誌』下、京都府与謝郡、1923年
- 五日市町誌編集委員会 編『五日市町誌』上巻、五日市町誌編集委員会事務局、1974年
脚注
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