佐野道可事件に関する逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 16:34 UTC 版)
「内藤元盛」の記事における「佐野道可事件に関する逸話」の解説
この計画は輝元、秀元および当主秀就、兄の宍戸元続のみで練られ、実行に移された。毛利家中の慎重派で親徳川派の吉川広家と福原広俊は、後にこれを聞いて非難している。 輝元と秀就は、元盛に対し次のような誓詞を与えていた。 今度元続を以て頼んだ事、分別して上坂され神妙の至り。生々世々忘れない。約束した事は必ず守る 嫡子の本家は勿論、その兄弟の分家まで将来とも見捨てず取り立てるから安心してほしい 大坂ではどんな事があってもお互い申し通じてはならない。城中の首尾、然しかるべきよう頼み入る 元盛の2人の息子も自刃したことを知った柳生宗矩は嘆き、切腹を悼む旨の書状を宍戸元続・都野惣右衛門の両名に送ったといわれている。 堀智博の研究によると、この上記の逸話には信憑性がなく、佐野道可は天正17年(1589年)に輝元から勘気を蒙って追放されており、牢人として拠り所のない道可は輝元の意思とは無関係に大坂籠城を行ったとする。
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