佐倉藩の出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 04:33 UTC 版)
10月23日に、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩主・堀田正順宛に「女化原で百姓共が集まり、騒立てているので、3人の代官と相談の上、早々取鎮めるよう」書付が渡された。そこで、「万一、百姓が手向かいする時は、飛道具(鉄砲)を使ってもよいのか」文書で問合わせたところ、「時宜によって飛道具等使っても苦しからず」と口頭で了解が得られた。早速、佐倉藩江戸屋敷から佐倉城へ連絡があり、同日午後4時から6時頃に、一番手(56人)と二番手(37人)の兵が龍ヶ崎宿へ向けて出立した。25日午後2時頃、三番手(38人)の兵を佐倉藩堺の松崎村へ派兵し、模様次第で差向ける事ができるようにした。 11月1日、3人の代官から、「老中青山下野守殿から引払いの御達」があった旨、仰せ渡され、一の手と二の手は同日16時に若柴宿を引払い翌12時に佐倉へ到着、三の手は20時に松崎村を引払い翌朝2時に佐倉へ帰着した。
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