伝今川義元首塚の由来
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当寺第四世の徳順上人は、今川義元の叔父と伝えられ、義元は禁制を出すなど深く帰依したとされる。永禄3年5月19日(1560年6月12日)、義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、討ち取られた義元の首は須ヶ口に晒された。当時鳴海城主であった今川家武将の岡部元信は、鳴海城と引き換えに主君義元の首を返却された。元信はその首を携えて刈谷、吉良を経由して駿河国を目指したが、初夏の暑さから首の損傷が激しく、途中縁故ある当寺に立ち寄って、塚を築き、首を埋葬した。この時、2名の武将が当地に留まって墓守となったが、そのうちの1名は名を今村某といい、今村家は当寺の大檀那として昭和まで続いた。(当寺過去帳より)
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