伊藤清_(衆議院議員)とは? わかりやすく解説

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伊藤清 (衆議院議員)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 13:43 UTC 版)

伊藤清

伊藤 清(いとう きよし、1890年明治23年)12月7日[1] - 1981年昭和56年)6月12日[2])は、大正から昭和期の弁護士裁判官政治家衆議院議員

経歴

千葉県[1][2]匝瑳郡福岡町(八日市場町[3][4]八日市場市[5]を経て現匝瑳市)で、伊藤啓三郎の二男として生まれる[1]。錦城中学校(現錦城学園高等学校)、第三高等学校を経て[4]、1918年(大正7年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した[1][2][3][4][5]

1918年8月、司法官試補に任官し[4]東京地方裁判所予備判事、長崎地方裁判所判事を歴任し[1][2][3][5]、1921年(大正10年)7月に退官した[4]。留学してロンドン大学ベルリン大学で学び[2][3][5]、在学中に司法省から英独の労働法研究の委嘱を受けた[4]。1925年(大正14年)に帰国し弁護士を開業した[1][2][4]。1927年(昭和2年)日本大学講師となり政治学を担当[2][3][4][5]。1941年(昭和16年)8月、大日本興亜同盟理事に就任[3][4]。また、日本肥料、小林鉱業、昭和電工、津田合名、鉄道塗装工業、日本写真工業、鹿島組などの顧問を務めた[2][3][4]

1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け千葉県第2区から出馬して当選し[1][5]、衆議院議員を1期務めた[2][3]。この間、司法省委員、翼政会事務局参与、翼政会政調内閣・司法兼務委員などを務めた[4]。戦後、日本進歩党に所属し[2][3][5]、その後、公職追放となった[6]

その後、第二東京弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを務めた[2]

著作

  • 『独逸労働法概論』酒井書店、1928年。
  • 『明治精神に生きる』伊藤清、1969年。

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g 『大衆人事録 第14版 東京篇』42頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』44頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『光芒の人 千葉県人物事典2』265頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『翼賛議員銘鑑』24頁。
  5. ^ a b c d e f g 『千葉大百科事典』57頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、182頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。

参考文献

  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年。
  • 『千葉大百科事典』千葉日報社、1982年。
  • 石井暉二『光芒の人 千葉県人物事典2(政治編-国会議員)』ぎょうせい、1990年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。



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