京極騒乱の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 08:42 UTC 版)
明応6年(1497年)斎藤妙純が北近江に侵攻し京極政経を破るが、美濃への帰国中に一揆勢に囲まれ戦死してしまい、高清も没落、美濃海津に寄留する。翌明応8年(1499年)に京極氏重臣・上坂家信の助力により江北へと帰還、京極政経は出雲の守護代尼子経久を頼り下向し、永正2年(1505年)に京極政経の子で従弟の京極材宗と和睦し、35年続いた家督争いを終える。同年に上平寺城を居城とし、2年後の永正4年(1507年)に材宗を自害に追い込んで領国統一を成し遂げ、上坂家信の元で北近江の統治を行った。 この時に、高清は京極政経の養子となり、正式に家督を譲り受けたという説もある。
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