九陰真経の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 03:48 UTC 版)
一度、黄裳の死に伴い紛失してしまう。しかし、1180年ごろ、ふたたび発見され、『九陰真経』を巡って多くの武道家が戦い、死んでいった。そのため、華山論剣と呼ばれる会談が開かれ、天下で一番優れた武術をもつ人間に『九陰真経』が与えられることとなった。このとき優勝したのが全真教の王重陽(1112年-1170年)である。『九陰真経』を手に入れたとはいえ、王重陽は同時に『九陰真経』を巡る争いから、二度と争いが起こらないようにと、『九陰真経』を破棄しようとしたが、どうしても天下一の武術が失われることが耐えられず、自分は習得せず、誰にも見せず保管していた。そして、王重陽亡き後、ふたたび『九陰真経』をめぐり江湖で争いが繰り広げられる(『射鵰英雄伝』)。 その争いの中、『九陰真経』の原本は上下巻ともに周伯通によって破棄。ただ、内容は郭靖、黄蓉、周伯通らが暗記していたため、失われてはいなかった。また、楊過らも古墓で『九陰真経』の断片を発見し、一部ではあるが習得している(『神鵰剣俠』) それから時は流れ、元末から明の始め頃には九陰真経は江湖から姿を消していた。郭襄の孫弟子にあたる峨嵋派の滅絶師太によれば、郭靖は弟子に『九陰真経』を伝えたのだが、難しすぎて誰も習得ができなかったと言う。しかし、作中では倚天剣に隠されていた『九陰真経』が発見されるとともに、楊過の子孫であると思われる「黄衫の女」が『九陰真経』の技を使用している(『倚天屠龍記』)。
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