佐藤屋
(乃し梅本舗佐藤屋 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/30 21:29 UTC 版)
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 〒990-0031 山形県山形市十日町3-10-36 |
| 設立 | 1968年 1821年(文政4年)創業 |
| 業種 | 食料品 |
| 法人番号 | 8390001000663 |
| 事業内容 | 和洋菓子製造販売 |
| 代表者 | 代表取締役社長 佐藤慎太郎[1] |
| 資本金 | 1000万円 |
| 従業員数 | 40名(2025年9月現在) |
| 外部リンク | https://satoya-matsubei.com/ |
佐藤屋(さとうや、株式会社佐藤松兵衛商店)は、山形県山形市に本社を置く和洋菓子製造メーカー。
概要
1821年に初代佐藤松兵衛が創業[2][3]。同県村山地方の銘菓「乃し梅」の製造元祖とされ、山形市内に本支店5店を展開する。洋菓子も県内で最も古くから扱っている菓子舗のひとつである。
創業者は酒造業を営む佐藤清吉家の次女と製薬販売業の黒田玄仙家の次男との婚姻によって成立した佐藤松兵衛家の当主で、両家の技術的基盤を継承して乃し梅の製造販売を開始した[4]。
店舗は明治27年の山形の「南の大火」で大きな被害を受けたが、昭和9年に現在の本店となる二階建て木造モルタル耐火建築が完成した[4]。戦時中は砂糖統制により一時製造中止を余儀なくされたが、戦後は桜餅から製造を再開し、昭和24年頃より本格的な菓子製造販売を復活させた[4]。
2007年末、京都の老舗和菓子店「末富」で修行した7代目松兵衛の長男である佐藤慎太郎が入社以降、1年に4、5種類の新商品を発売し、「乃し梅」を使った新商品の発売に注力している。「伝統を守っているだけでは続くのが難しい。攻めることも必要です」と佐藤は話している[2][5]。
乃し梅
初代松兵衛が、梅の実と黒砂糖、寒天を混ぜ合わせ、梅羊羹として売り出したものが「乃し梅」の原型となった。三代目がそれを「乃し梅」と命名し明治時代に商品化するが、当時は梅の実を保存する方法が無く、夏季限定の商品だった。後年、水煮した梅の実を缶の中で密封し、煮沸消毒する方法にたどり着き、通年製造を始めた。四代目松兵衛は東京、名古屋、京都、大阪、神戸で修行を積み、美術菓子の技術を習得した。明治三十五年の京都府第二回菓子品評会で褒状を受けて以降、各地の博覧会で高い評価を得た。
明治時代後半には乃し梅は山形の銘菓として全国的な知名度を獲得し、正岡子規は『墨汁一滴』の中で「山形ののし梅」に言及している[4]。乃木希典の日記にも旅順攻撃前に菓子(のし梅)を贈った記録や山形から「熨斗梅一箱」が送られた記録が残っている[4]。
昭和4年の徳太郎(後の五代松兵衛)の日記によれば、山形県南部置賜方面へ56日、県外へ48日の出張を行い、北海道から樺太まで商品を卸していた[4]。三越デパートでの販売も昭和初期から行われていた[4]。
佐藤屋では三代目当時の製法を頑なに守り、伝統の味を今日まで伝えている[6]。原料の梅は大半が、天童市や東根市など地元産[7]。
書籍
小冊子
脚注
出典
- ^ 「佐藤松兵衛商店:地域を代表する企業100選」『Made In Local』IOBI。2025年9月28日閲覧。
- ^ a b 「根ほり葉ほり 伝統菓子で次々新商売開発 狙いは 乃し梅本舗佐藤屋常務 佐藤慎太郎さん」『朝日新聞』山形版 2018年4月15日
- ^ “山形和菓子「乃し梅本舗 佐藤屋」のし梅からネオ和菓子まで200年重ねても若い老舗”. satoya-matsubei.com. 2025年9月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 「令和4年1月号 (PDF)」『菓子工業新聞』全国菓子工業組合連合会、2022年1月15日、19面。
- ^ “東北 VALUE SIGHT 山形 伝統が全てではない。地域に愛され、必要とされる仕事をしてこその老舗 乃し梅本舗佐藤屋 八代目 佐藤慎太郎”. Future SIGHT. フィデア総合研究所. (2011年). オリジナルの2019年7月15日時点におけるアーカイブ。 2019年7月20日閲覧。
- ^ 「みちのく名物紀行 山形市・のし梅 職人の粋運ぶ香り」『毎日新聞』宮城版 2002年5月11日
- ^ 森山昌秀「【みちのく会社訪問】佐藤屋(山形市)伝統の銘菓に「時代」を融合」『産経ニュース』2015年11月13日。2019年7月18日閲覧。
- ^ 「「のし梅の歴史」発刊」全国菓子工業組合連合会。2025年9月29日閲覧。
外部リンク
- 佐藤屋のページへのリンク