丸吉講のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 03:42 UTC 版)
明治の神道国教化の中で、丸吉講とその枝講は、旧来の講を継承した富士一山講社(後の扶桑教会、神道扶桑教)に加入した。片山の丸吉講の先達並木定右衛門は、富士一山講社から「大先達タルベキ事」という官許印の押された証書を得ている。その後も、この並木家は代々熱心な先達を勤め、終戦まで富士山への代参を行った。 中野の丸吉講は、昭和43年(1968年)7月に先達榎木博ら総勢62人による「太々神楽奉納」の額が上紋司家に残されているが、これを最後に今は登山も絶えているという。 志木敷島神社の丸吉講は、富士太々講、扶桑教会志木駅社と名称を変えていったが、昭和16年(1941年)の3人の代参を以って終了とされている。
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