中村荘司宗平以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/13 08:37 UTC 版)
「中村氏 (相模国)」の記事における「中村荘司宗平以前」の解説
中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子平頼尊に始まるという。頼尊は出家した後、山辺禅師と号した。頼尊の息子が武蔵押領使常遠であり、その息子で横浜市栄区笠間に住した笠間押領使常宗が鎌倉景正に討たれたことが『桓武平氏諸流系図』[要文献特定詳細情報]に記載されている。 そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。 しかし、諸系図では宗平以前は混乱している傾向が見られる。一般に良文流と言われているが、その兄・良兼の子孫とする系譜も存在し(『富岡家本土肥家系図』[要文献特定詳細情報])、常遠については平忠常の子に置く系譜も見受けられる(『千葉大系図』[要文献特定詳細情報])。さらには、記録(『水左記』[要文献特定詳細情報])には、承暦3年(1073年)押領使景平なる人物が権大夫為季に討たれると記載されていることから、本来は押領使景平の末裔だとも言われている。以上のように、宗平以前は不明なところが多い。
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