中フランク継承戦争
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1032年、中フランクの血筋古ヴェルフ家がルドルフ3世の死を最後に断絶した。ザーリアー朝のコンラート2世は、姻戚としてユーラブルグント王国を継承した。しかしヴェルフ=エステ家も姻戚であった。中フランクの継承権をめぐる対立が生まれた。 皇帝ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世と叙任権闘争を展開した。1122年息子の5世がヴォルムス協約を結び、教会の財産権を留保した。1133年、ロタール3世は教皇インノケンティウス2世から冠を授かり皇帝となった。 ホーエンシュタウフェン朝のコンラート3世が皇帝となってから、1140年ヴァインスベルクの戦いが起きて、教皇派と皇帝派の対立に呼称が定着した。諸侯を主勢力とする皇帝派と、ヴェルフ=エステ家とロンバルディア同盟を主勢力とする教皇派は、キリスト教という名の地中海利用権を争ったのである。ヴェルフ=エステ家は同家から一度だけオットー4世を皇帝に据えることができた。しかしまたホーエンシュタウフェン朝から皇帝フリードリヒ2世が出た。
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