上条城 (常陸国)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 上条城 (常陸国)の意味・解説 

上条城 (常陸国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 02:42 UTC 版)

logo
上条城
茨城県
城郭構造 平城
築城主 不明
築城年 明徳元年(1390年)頃
主な城主 大越氏、大越治部大輔、江戸崎監物
廃城年 天正18年(1590年)
遺構 土塁、案内板
指定文化財 未指定
※阿見町名所百選に選定
位置 北緯36度00分39.8秒 東経140度14分20.2秒 / 北緯36.011056度 東経140.238944度 / 36.011056; 140.238944
地図
上条城
テンプレートを表示

上条城(じょうじょうじょう)は、茨城県稲敷郡阿見町上条字城ノ内にあった日本の城平山城)。史跡指定はされていないが「阿見町名所百選(No.20)」に選定されている[1]

概要

城の規模はかなり広かったそうだが、現存している土塁がまばらになっているので城の形などはよく分かっていない。遺構はかなり残っているが開発のため年々破壊されていっている。

歴史

南北朝時代末期に関東管領上杉氏常陸国信太郡を支配していた頃、家臣団「信太庄山内衆」である大越氏が入城した。上杉氏が衰えた戦国時代には土岐氏に属した。

天文年間(1532年1554年)に落城して城主・大越治部大輔(政明)は下総に逃れ[1][2]小田氏家臣である江戸崎監物居城とした。江戸崎監物小田氏の本城である木原城攻めの際に敵の佐竹氏側に寝返り落城した。

この後の永禄年間(1558年-1570年)初頭に大越治部大輔[3]が再び当城に帰ったが、天正18年(1590年)の江戸崎城落城とともに廃城となり、大越氏も帰農したという[1]

脚注

  1. ^ a b c 「阿見町名所百選 君原小学校地区(その4)」阿見町公式HP
  2. ^ 『霞2018年冬季展示室だより(土浦市立博物館)』通巻45号、P6
  3. ^ 「孫の長善」『霞2018年冬季展示室だより(土浦市立博物館)』通巻45号、P6

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上条城 (常陸国)」の関連用語

上条城 (常陸国)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上条城 (常陸国)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上条城 (常陸国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS