上州の動乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:45 UTC 版)
天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、高広は替わって武田領の大半を支配した織田氏(織田信長)の配下で関東方面を任された滝川一益に仕え、滝川に厩橋城を明け渡し、次男を人質として差し出した。だが直後の6月に織田信長が本能寺の変で横死、織田政権が瓦解したため、滝川一益は神流川の戦いを経て中央に帰還する。この際滝川は関東諸将の人質を無条件で返還しており、高広の次男も返されている。空白地となった上州は再度北条氏の支配下となり、高広もこれに一旦服属した。しかし同年12月沼田城の真田昌幸が北条氏を離反し上杉氏へ帰順したため、北条氏は真田氏および上杉氏に対し出兵を行い、周辺諸将に動員をかけるも、高広はこれを拒否して上杉氏に帰順。北条方である那波顕宗を攻めている。 上州の動きに対し北条氏も大軍を動かし、箕輪城を占拠した。この方面を任されていた北条氏邦だけでなく、当主である北条氏直まで出陣し、厩橋城を攻めたてた。高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月に厩橋城は氏直の手に渡っている。 景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの、北条氏の越後国の本領を取り戻すことはできず没落した。
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