一部史書との食い違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 03:27 UTC 版)
『十六国春秋』及び『晋書』司馬勲伝では、『晋書』苻健載記や『資治通鑑』とは異なる記載が為されている。以下、『十六国春秋』及び『晋書』司馬勲伝に記されている内容を記す。 杜洪は自らが豪族である事から、かねてより張琚を軽んじおり、また司馬勲が張琚の兵が強い事を恐れているのを知っていたので、司馬勲へ向けて「張琚を殺さねば、関中は国家の有するものでは無くなるでしょう」と語った。これにより、司馬勲は偽って張琚を呼び寄せ、座においてこれを殺害した。張琚の弟である張先は池陽に逃走し、兵を集めて司馬勲を攻めた。司馬勲はこれと幾度も争ったが次第に不利となった。杜洪はこの混乱に乗じて秦王を自称し、建昌と改元して百官を置いた。352年5月、苻健は杜洪の守る宜秋に歩騎2万を率いて侵攻し、杜洪は敗北して殺害された。 『晋書』苻健載記・『資治通鑑』では秦王を自称するのは張琚となっており、大きな相違がある。
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