一揆の再燃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
宝暦5年8月4日(1755年9月9日)、笠松陣屋からの飛脚から三家老の免許状を奪い取った大勢の農民たちは、ただちに解散することなく今後の対策を協議した。その中でまず郡上郡中の代表として各村1名ずつ、総勢130名あまりが藩庁に行き、三家老の免許状を笠松陣屋に渡さぬように嘆願した。しかし藩側は、三家老の免許状を笠松陣屋に渡すことは殿様(金森頼錦)のご意思であり、殿様のご意思に背くのか背かぬのかと詰問し、これに対して橋詰村庄兵衛が「背くでもあり、背かぬでもあり」と答えたため、村預けとなってしまった。 宝暦5年8月11日(1755年9月16日)には、笠松陣屋から庄屋代表9名と足軽4名が美濃郡代の命を携えて郡上郡境までやって来たが、大勢の農民たちによって追い返された。その後も農民たちは郡上郡境を固め、宝暦5年8月17日(1755年9月22日)には15名の庄屋と4名の足軽の計19名が郡上へと向かったが、農民たちは検見取了承に印形をした庄屋たちを郡上に入れるわけにはいかないとして、やはり追い返された。農民たちの庄屋の帰還阻止行動は約2ヵ月半に及ぶことになる。
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